新年を迎えたおめでたい時期に暗い話になりますが、今の気持ちを残しておきたいと思います。
祖母が亡くなった
昨年12月29日。 祖母が鬼籍に入った。
享年86歳。1月10日で87歳になるところだった。
日本女性の平均寿命は87.05歳(2015年厚生労働省調査)だそうなので、ちょうど平均で亡くなったことになる。
昨年10月24日に心不全で倒れ、いつ亡くなってもおかしく無いと宣告されてから66日。
何度か帰省してお見舞いに行ったが、顔を見たり思い出話をしたりすると涙を流したりうめき声が出たりして意識があることもあれば、全く視点が定まらず反応も無い時もあった。
身動きも取れず会話も出来ない66日間はどれほど苦痛だっただろうか。
苦しみから解放され、安らかな顔をした祖母に「ゆっくり休んで下さい。」と声をかけた。
祖母に育てられた私
祖父は父がまだ小さい頃に亡くなり、両親は共働きだったので、私は「おばあちゃん子」だった。
学校から帰ると祖母に「ただいま」と言い、習い事の送り迎えは祖母にしてもらい、祖母の農作業に付いて行って畑で遊び、祖母と夕飯の買い物に行くのが日常だった。
時には忘れ物を学校に届けてもらったり、習い事が嫌で逃げ回ったりして祖母を困らせたこともあった。
祖母に育ててもらったと言っても過言ではない。
そんな祖母にどれだけ恩返しが出来ただろうか。
「親孝行したいときには親はなし」というが、祖父母の方が時間が無い分より切実だと思う。
今はもう冥福を祈ることしか出来ない。
祖母の人生
これまで祖母の生い立ちについてあまり知らなかったのだが、葬儀の準備の中でいろいろと話を聞くことが出来た。
学生時代は戦争の最中で、学徒動員で工場で働いたこともあったそうだ。
よく戦争の話をしてもらったことを思い出す。
20歳で熱望されて結婚し、家族で農業を営んでいたところ、29歳のときに義母、義祖父、そして夫を相次いで亡くし、病気の義父と2人の小さな子供(父と叔母)を抱えて途方に暮れた時期があったそうだ。
その頃の心中はいかばかりだっただろうか。
もし自分がそのような状況に陥れば、簡単に絶望してしまったに違いない。
それでも実家や兄弟の助けを借り、義父と子供の面倒を見ながら早朝から夜遅くまで仕事を頑張り、家を建て替え、2人の子供を立派に育てあげた。
夫を早くに亡くしてからお見合いの話もあったそうだが、それでは家が絶えてしまうと固辞したそうだ。
自分の幸せより家の存続を優先した祖母。
その時代の考え方という側面もあったのだろうが、そのおかげで今の家族がいて、今の自分がいることに本当に感謝してもしきれない。
子供が結婚して独立してからは余裕が出来て、孫(私や妹)の世話をしながら農業を続け、兄弟や友人と海外旅行を楽しむことが出来るようになった。
晩年は足腰が衰え、家やデイサービスの施設でのんびりとした時間を過ごしていたが、数年前にはクモ膜下出血を発症。
命も危ないところだったのだが奇跡的な回復を遂げ、1年後の私の結婚式に出席してくれた。
壮絶な人生だったと言っても過言ではない。
納棺の儀
昨年12月30日。
元々この日に帰省の予定だったので、予約していた新幹線に乗って実家に帰ると、既に納棺師が来ていて祖母の装束を整え化粧を施してくれているという。
納棺に立ち会うのは初めてだったが、納棺師という言葉からすぐに映画「おくりびと」を思い出した。
この映画は死者をおくりだすとはどういうことかを描き出した、私がこれまでに見た映画の中でも最も感動した映画の1つだ。
映画のように化粧をしているところは襖で隔てられ見られなかったが、準備が整った後に装束の紐を結び、草鞋を履かせるところは親族1人1人が行った。
紐を結ぶ時に「縦結びで」と納棺師に言われたのだが、縦結びがわからず蝶結びをしようとしてしまい、変なところで常識の無さを思い知る事となった。
運び込まれた棺はなんとピンクだった。
祖母が生前「これまで散々葬式に参列して香典を出してきたから、わしの葬式は派手にやってくれ」と言っていたようで、棺もピンクにしたそうだ。
祖母は化粧のおかげか華やかな顔をしていたが、その身体は驚くほど軽く、そして冷たかった。
葬儀
三が日は葬儀屋、火葬場が休みなところも多いようだが、地元ではどちらも元旦以外は稼働しており、また菩提寺の住職は4日以降は予定があるとのことで、通夜は1月2日、告別式は1月3日に執り行われることとなった。
葬儀屋の方が毎日打ち合わせに来られ、棺のドライアイスを換えたり準備を整えたりしていた。
両親も親戚、知人に連絡して回ったり、葬儀屋の方と必要な打ち合わせを行ったりと大忙しだ。
通常、大勢が訪れる2日間のイベントがあれば、その準備に1ヶ月はかかりそうなものだが、それを僅か数日で行わなければならないのだから無理もない。
地元では、自治会の中でも近隣の「組」の方々が受付などを受け持ってくれるようで、「組」の方々との打ち合わせもあった。
都会では失われてしまった近隣との助け合いの精神が、田舎では息づいているのだと改めて思った。
通夜に先立ち自宅出棺が執り行われ、私も棺を持って自宅から霊柩車へと棺を運んだ。
外には大勢の近所の方々が見送りに来られ、この地で60年以上暮らしてきた祖母の足跡の一端を感じることが出来た。
霊柩車を追って葬儀会場に着くと会場の準備が既に整えられており、豪華な祭壇と数々の献花、籠盛りが目を引き、ここでも祖母の深い人徳の一端を感じることが出来た。
私が勤める会社からも献花と弔電が届いており、年末年始にも関わらず手配してくれた上司に感謝した。
また父が退職後に中国やベトナムの若者との交流事業を手がけ、祖母も彼らを孫のように可愛がっていたこともあり、中国やベトナムからの献花、弔電、弔問も多く、国際色のある葬儀となった。
実家の菩提寺は曹洞宗で、通夜、葬儀も曹洞宗の作法に倣って進められた。
これまでなんとなく3回行っていた焼香も実は宗派によってやり方が違い、曹洞宗は“初香(しょこう)を念じ、従香(じゅうこう)を念ぜず”と言い、1回目は香を額の前に押し頂いて焼香し、2回目は額の前に上げることなく焼香するようだ。
式の前に住職からそのような分かりやすい解説があった。
ただでさえ分かりづらい領域なので、このような解説があるととても助かる。
葬儀では住職と僧侶5人がお経を唱えたり、「鼓鈸三通(くはつさんつう)」と言う、”太鼓や繞鈸(にょうはつ)と呼ばれる仏具を使い、音を打ち鳴らす“儀式が行われた。
大勢の参列者の中、太鼓や鐘が打ち鳴らされ、「派手な葬式にして欲しい」という祖母の願いが叶えられたのではないだろうか。
出棺の前に参列者全員が花や、待ち時間に折っていた折り鶴を棺の中に入れて最後のお別れをした。
私も事前にメッセージを書いて久々に折った折り鶴と花を棺に納めたが、幼い頃からずっと一緒だった祖母とこれが最後の別れになると思うと涙が溢れてきた。
火葬
出棺では、遺影を持って位牌、野膳を持つ両親に続いた。
遺影は私の結婚式の時の写真が使われ、私の結婚をとても喜んでくれた祖母の笑顔が浮かぶ。
棺が霊柩車に納められ、物悲しい別れのクラクションを鳴らして出発する。
霊柩車を追ってバスで火葬場へ移動すると、すぐに読経と焼香をし、祖母との最後の別れの時間を過ごした。
火葬炉の厚い扉が閉められた瞬間、なんとも言えない気持ちになった。
1時間強の時間を、待合室でいなり寿司を食べたり雑談をしながら待つと、アナウンスが流れぞろぞろと拾骨室へ向かう。
そこには変わり果てた祖母の姿があった。
参列者が思い思いに拾う骨を選んで、2人1組で箸で拾い上げ、骨壷に納めていく。
逞しく生きてきた証左だろうか、骨まで太く逞しく見え、特に大腿骨を見た参列者からは感嘆の声があがった。
担当者が「お舎利様が綺麗に出た」というので見てみると、喉仏(一説には第二頸骨)の骨が舎利箱に納められるところだった。
喉仏の骨は仏様が座っているような形をしていることから「お舎利様」と呼ばれ分骨されるそうで、良い行いをしていないと中々綺麗に残らないそうだ。
職員の方が塵くらいの骨まで小さな箒を使って慣れた手つきで骨壷に納めていく様子を見て、また「おくりびと」に出てきた火葬場の職員を思い出した。
三日目法要
またバスで葬儀場へ戻るとすぐに「三日目法要」が執り行われ、読経と焼香が行われた。
焼香の際に、参列者の皆様が「御仏前」を供えていく。
通常「御仏前」と言えば四十九日法要後に使用するものだと思っていたのだが、調べてみると“「御仏前」は、一般には、四十九日以後の法要に使いますが、曹洞宗では、教義に浄土がなく、成仏以前という考え方が無いので、つねに「御仏前」を用います。“なのだそうだ。
宗派の違い恐るべし。 今後葬儀参列の際には、宗派を事前に確認しなければいけないと思い知った。
最後に、住職から戒名の解説があった。
位牌には長々と漢字が書かれているが、本当の戒名は居士・大姉などの位号の前の二文字なのだそうだ。
また、実家は長年菩提寺に貢献してきたことから「軒号」が付いているといった説明や、祖母がこれまで苦労して家を守ってきたことを現した戒名であるとの説明があった。
戒名についてはwikipediaにわかりやすく解説されていたが、「(院・庵・軒号) (道号) (戒名) (位号)」という構成になっているそうで、とても興味深い。
自分の死後、どのような戒名が付けられるのか興味が湧いた。
葬儀が終わると、精進落しの料理を食べて解散となった。
葬儀を終えて
葬儀を振り返れば、大勢の参列者に囲まれ、とても良いお葬式だったと思う。
私自身、葬儀の数々の儀式を通して祖母の死と向き合い、気持ちの整理が出来たと思う。
おばあちゃ、 さようなら。
育ててくれてありがとう。
長い間お疲れ様でした。
天国で50数年ぶりに逢う旦那さんと久々のデートを楽しんでください。
「死は誰にでも訪れる。 遅いか早いかだけの違いだ。」という伯母の言葉が耳に残っている。
大切な人が亡くなった時に後悔しないように、常日頃から心を砕いていきたいと思った。
ふと、自分の葬式はこのように大勢の人に悼まれるようなものになるのだろうかと、自分の死後の世界に思いを馳せてみた。
遠方からわざわざ駆け付けてくれたり、涙を流してくれたりする人がいるかというと、現時点での私の狭く浅い交友関係では正直怪しい。
終活という言葉が昨今取り沙汰されているが、晩年になって慌てて考えるのではなく、若い内から自分はどのような死を迎えたいのかを考え、それに向けて行動することが重要ではないだろうか。
少なくとも、私は祖母のように大勢の方に惜しまれ、大勢の方の心の中に残る形で死を迎えたい。
その為に今から出来ることを考え、実行していきたいと思う。